原発への人的災害
かつて、筆者は原発問題に関して「発明してしまった科学は、なかったことにはできない。いかにしたら安全を確保できるか、人類と共存できるか」を探るべきだと主張(脱原発是非論)しました。その安全の確保について、さらに危惧するところを述べてみたいと思います。 筆者がまだ小学校1~2年のころ、(すなわち今から60年以上前)佐賀県の片田舎に住んでいましたが、そこには水道どころか井戸すら満足になく、生活用水の水汲みは大変な重労働でした。裏山の清水が湧き出す水たまりまで登って、二つの桶一杯に水をくみ、天秤棒で担いで家まで運ぶのが、二つ上の兄と私の仕事でした。 我が家の庭に井戸を掘って貰ったのは、小学校4年くらいでしょうか。それでもまだ手こぎ式ポンプを漕いで桶に水を張り台所まで運ぶという方法で、そのきついこと、今でも感覚として残っています。それから1年後くらい、やっとコンクリートで水タンクを作り台所までパイプを張り、モーターで水汲みをするようになったとき、どんなに嬉しかったことか、実際に経験したことがない人にはなかなか分って貰えないでしょうね。 しかし当時はまだ、戦後10年を経ない頃で、電気も十分ではなく、停電など日常茶飯事、モーターが動かなくなって手漕ぎポンプでタンクへの水汲みをさせられたときなど、「又か・・・」という思いでした。 時は流れて、テレビが出現し、洗濯機、冷蔵庫、エアコン、電子レンジ、IT・パソコンと次々に我々の生活の中に電化製品・電気機器が入り込み、電気への需要は幾何級数的に増加の一途をたどりました。湯水の如く電気を使用する現在、今更、あの手漕ぎポンプの時代に戻れと言う方が無理です。電気なんか無くても言いなどとおっしゃっている学者先生、一度水汲みをご自分でやってみて下さい。3日と持たないと思いますよ。 その電気の根源は?と言いますと、言わずと知れた石油と原子力です。今、元総理の小泉さんまで加わって原発反対運動が盛んで、全原発の再稼働が止められていますが、石油エネルギーだけで持ち堪えるにはすでに限界にきており、否応なく再稼働を計らなければならない時期にきていることは明らかです。 そこで、問題提起です。原発の安全性と言えば、ほとんどすべて人の頭の中に、天変地異からくる災害が思い浮かぶことと思います。それも当然です。あの福島の事故は、かつて一度も経験したことのない災害でした。再びこうした災害が起こったらどうするかと心配するのは当然だと思います。しかし、それだけで十分でしょうか。自然災害に備えるだけで原発の安全性を考慮したことになるのでしょうか。筆者は、自然災害と同じく備えなければならない極めて重大な問題として人的災害を考えます。 人的災害とはなにか。「テロ」「戦争」あるいは過失の事故です。中でも自然災害に比較して、「テロ」と「戦争」は、意図的にピンポイントで原子炉を破壊しようと狙います。もし、原子炉に爆弾でも仕掛けられたら、あるいはミサイルが命中したらその被害は福島どころではありません。それこそ、日本中が人間の生存できない世界となりかねません。 「そんなバカことあるわけない。」とは、世界各地で起きている紛争、戦争あるいはテロ事件を顧みれば、決して断言できません。今回のウクライナ東部でのマレーシア機撃墜事件、イスラエルのガザ地区での殺し合い、皆そんなバカのことの連続です。テロにしても、「オウム真理教」のように気が狂った集団が何をするか予測ができないのが、現実です。憲法のいう「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」することが絶対にできないのが、現実の世界です。これら人的災害の発生確率は、福島のように千年に一度といわれるような災害の発生確率をはるかに凌駕することは明らかです。 今一度警告します。一度発明しあるいは発見し、それに浸ってしまった科学文明は、なかったことにすることなど不可能です。「なかったことにしよう」と馬鹿げた運動にエネルギーを費やすのではなく、「いかにしたらこれと安全に共存していけるか」真剣に、徹底的に議論し、対策するのがいま一番必要とされていることではないでしょうか。何かが起きてしまってからでは、遅いのです・・・。
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